ASHINO KOICHI +plus
彩書家・蘆野公一の日々のつれづれ
換気扇(後)
2023/06/25
Sun. 00:19
学生の頃に住んでいたアパートの換気扇は、ガスレンジ上部垂直取り付けの、4枚の羽根が剥き出しになったものだった。
スイッチは垂れ下がった紐で、油でつやつやになったその紐を引っ張ると、羽根が回るのと同時に外に面したパネルが開き、轟音とともにキッチン内ばかりでなく部屋中の空気を否応なく外に排出してくれた。
簡便、実直という言葉がぴったりくる代物だった。
安普請のアパートが立ち並ぶ一帯は、どこも似たようなもので、それぞれのごはん時、それぞれの調理する様々な料理のニオイが立ちこめた。

そんな住居事情を詳しく知る友人は、意図して、夏の暑い夜にくさやの干物をもって泊まりに来た。
深夜、私は、付近の窓全開の人たちに申し訳ないと思いながら、くさやを焼いた。
うちで焼いていることがばれませんようにと祈りながら、くさやを焼いた。
近隣から上がる「くせえよ!夜中だぞ!」という声や、窓やカーテンを勢いよく閉める音などを聞きながら、くさやを焼いた。
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抽斗いっぱいの靴下
2023/05/19
Fri. 03:49
約束の時間に間に合うか、間に合わないかで家を出て、小走りをしながら陽の光にさらされた足元を見る。
いけない。これはいけない。
暗がりの玄関で、これはまずいかもしれない、と薄々感じてはいた。
しかしいま、想像を超えた違和感が足元にある。
靴の色、靴下の色、パンツの色。
陽の光の下で、それらは絶妙に合っていない。
全然大丈夫だし、誰もそんなところ見ていない。と友人は言った。
いや、これは他人の目が問題なのではない。
自分が自身を許せるかどうかの問題なのだ。

東京駅ユニクロで靴下を買って履き替えた。

怒られた。
まあ、最近はもうびっくりするくらい全然平気で歩いています。
自分を許せています。
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様式としての魔物
2023/02/02
Thu. 03:56
高校生のころは、今のように個人で持てるような電話などなかった。
青春を謳歌している10代は、夜になると、ひっそりと彼女・彼氏の元へイエデンから電話をかけるのが様式だった。
そして、その様式の中に組み込まれるようにして魔物は存在した。

私もそんな様式に則っていた。
部屋に電話はあれど、回線は一つしかない。
電話が長くなったりすると、魔物はわざとかどうか知らんが、階段をダガ!ダガ!ダガ!ダガ!と音を立てて上ってくる。
やばい!来た!と受話器を持つ手に汗が滲む。
部屋の鍵がかかっているか確認する。大丈夫だ。
階段を上りきった。
もう、すぐそこにいる。
ドガ!ドガ!とノックが鳴る。
魔物が発する熱量がすごいのか、閉まっているドアが揺らめいて見える。
一瞬金縛りにかかるも正義の呪文を飛ばす。
「ベンキョーデワカンナイトコキイテンノスグオワルカラ!」
十字も切ったかもしれない。
すると魔物は何かよくわからない言葉を言って去っていく。魔界の言葉なのでよくわからないのだ。
退散させることはできたが、魔物が一度来るとテンションは否応なく下がる。
じゃあまた、と受話器を置く。
そしてテンションだだ下がりのまま、机に向かったりしたのだった。

魔物が二度三度と来襲することもあった。
もうそれくらいになると正義の呪文も効かない。
血を抜かれ、立てなくなった10代は、机に向かうこともできず、横になるしかないのだった。
魔物を逃れ、公衆電話を使用する者もいました。
でも、受ける側には魔物がいるわけで、いずれにせよ大変な時代でした。
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電話機回想譚
2023/01/28
Sat. 06:01
掃除機のデザインについて書いていて、思い出したことがあります。
高校時代、自分の部屋にあった、アイボリー色のプッシュボタン電話機がどうにも気に入らなくて、"Iskra" というメーカーの電話機を手に入れました。
いや、正確に書くと、プッシュボタンが気に入らなかったのではありませんね。"Iskra" に一目惚れし、どうしても欲しくなってしまったのでした。
あの頃は、ネットで探してポチっと、などということはできなくて、手に入れるまでが大変でした。
指差しジーコジーコダイヤルでしたが、とにかくデザインが良かった。
部屋に来た時は、小さい座布団の上に置いて、ずっと眺めてました。
目がキラキラうっとりしていたと思います。

一人暮らしをするようになって、留守番機能やFAXの付いた電話が必要となり、何度かの引越しの波に揉まれたりして、いつの間にか無くなってしまいました。
今でもあの "Iskra" は、記憶に鮮明に残っています。
高校生にはわりと高価で、身の程を弁えない買い物を親に内緒でしてしまったのでした。
すぐに鬼の追及がなされましたけれども。
スマホに頼るようになった今こそ、イエデンは "Iskra" でいいのではないだろうか、いっそのこと "Iskra" を手に入れてしまおうか、と一瞬思いましたが、ごく一部の年配者のためにFAXは手放せないのでした。
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挿話・獨逸譚
2023/01/14
Sat. 22:32
ひょんなことから、作品をドイツで展示したときに、購入してくれた方のことを思い出した。
名前も、住んでいる場所も知らない。
元気だろうか、今どうしているのだろう、ちゃんと手許に置いておいてくれているのだろうか、とすこしばかり気になった。(いや、しかし「置いておいてくれている」ってすごい日本語ですね)

最近、よくメッセージをくれるドイツの作家友人がいる。
彼に探してもらおうかと思った。
SNSが発達しているこの時代、探したい人に関係しそうな数々のコミュニティに「尋ね人」として画像を投下すれば、おそらくすぐに見つかるだろう。
しかし、見つかったからといって、私はいったいどうするのだろう。
きわめて人見知りで、おそろしく関わりめんどくさがりで、いやになるほど口下手の私が、気の利いたことができるはずもない。
やめておこう。
このまま良い思い出のままにしておこう、そう思った。
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